自タヒ未遂の話①
何だかタイトルが重たいですが。何度かに分けて吐き出したいと思います。
タイトルにある通りの話ですので閲覧注意かもしれません。
当時を思い出しながら書き殴りますのでまとまりがないと思いますが自分のゲロ吐き場としてこのブログを使っていますのでご了承ください。
私はタヒのうとした事がある人です。2回。
一度目はまだ子供の頃、小学校に入った頃でしょうか。
外面のいい親にイラついていました。
なぜ普段構わないくせに、友達が来たときにはお茶菓子が山のように用意され、様子を伺われ、盛大なおもてなしがされるのか。
私に対して興味がないのか。
両親の前で包丁をお腹に刺してタヒんでやる宣言をしました。
未だあのときの両親の『思いもよらなかった』みたいな顔は忘れてないです。
あの時にやはり既にもう私は壊れていたのだと思います。
寂しさから弟や妹の存在に憧れていました。
周りの友達兄弟姉妹の仲の良さに憧れていました。
しばらくして、弟が生まれました。
のちに私はこの弟の存在が忌まわしく思うようになります。
理由は簡単、両親の興味関心は全て弟へ向かうからですね。
弟に罪はありませんが、私にとっては非常に疎ましく、妬ましい存在になります。
この弟、生まれながらにして体が弱く、何度も救急車のお世話になりました。
私は既に小学生でしたし両親共働きの鍵っ子で独りで過ごす事に慣れていました。
ワガママを言うこともありましたが我慢をしていることが多かったです。
我慢を既にしているのに我慢をしなさいと言われ続けていたんですね。
どうしたら気をひけるのか、と考えてショッピングセンターで泣いて暴れたこともあります。
よく幼い頃から悪い事をすると山に置いていくと言われ何度か置いていくふりをすることをされていました。
ショッピングセンターで泣いて暴れた後はもちろん置いていかれ、泣きながら車を追いかけましたが横断歩道ですれ違ったお姉さん2人に保護され近くの警察署に連れていかれました。
心配なんかされなかったです。迷惑をかけるな、でした。
しばらくしてまた1人兄弟が増えるのですが、もはや歳が離れすぎて興味もないです。
ただ寂しがる気持ちはわかっていたので接し方はわからなくとも授業後や夏休みは家で過ごすようにしたりしてました。
おかげで部活の大会は出席率が悪いから、と言う理由で補欠でしたし
中学に入ってもやる気がないならやめろと言われてました。
中学2年か3年になってからは体調を崩すことも増え不登校気味でした。
ただ一日、両親が一緒に過ごしてくれた日が一度でもあったならあの頃の私は救われていたかもしれません。
でも現実は『迷惑かけないでちゃんと学校行って。』
毎日生きている心地がしなくて何のために生きるのかもわからなくて
周りは将来何になりたいだとか、高校はどこに行くだとか未来の希望について話しているのに、私は未来が見えず周りとの差は開いていくばかりでした。